iPS細胞とヒト幹細胞、その違いが教えてくれること——再生医療が静かに変えていく未来の話

梅雨の晴れ間、午後の診察室に差し込む白い光の中で、担当医がそっとタブレットを差し出した。画面には「iPS細胞由来心筋シート、条件付き承認」という見出し。患者の家族はしばらく黙って、それからゆっくり画面をスクロールした。その手の動きが、どこか祈りに似ていた。
2026年2月、厚生労働省の専門部会において、iPS細胞から作られた再生医療製品2品目の製造販売が了承された。
重症心不全に対する心筋シート「リハート」と、パーキンソン病に対するドパミン神経前駆細胞「アムシェプリ」——どちらも、これまで根本的な手立てがほとんどなかった疾患へのアプローチだ。
山中教授がiPS細胞の樹立を論文で発表してから、約20年という歳月が流れた。
20年という数字を聞いて長いと感じるか、短いと感じるか。それは人によって違う。ただ、その時間の重さは確かにある。
そもそも、iPS細胞とヒト幹細胞は何が違うのか。この問いを持ったまま調べ始めると、少し混乱することがある。実は、iPS細胞自体もヒト幹細胞の一種だ。
幹細胞とは、自分と同じ細胞を増やす能力と将来いろいろなものに変化する能力を併せ持った細胞であり、iPS細胞は成体幹細胞やES細胞と並んで幹細胞の一種である。
つまり「ヒト幹細胞」という言葉は大きな傘のようなもので、その傘の下にiPS細胞も含まれている。
では、再生医療の文脈でよく語られる「ヒト幹細胞」とiPS細胞の違いとは何か。
再生医療で使われる細胞は「体性幹細胞」と「多能性幹細胞」に大別され、体性幹細胞は決まった組織の細胞にしか分化できないが、多能性幹細胞はヒトの体をつくるすべての細胞に分化が可能だ。
クリニックなどで「ヒト幹細胞治療」として提供されているものの多くは体性幹細胞、なかでも間葉系幹細胞(MSC)を用いたものが中心となる。一方、iPS細胞は皮膚や血液といった体細胞に特定の遺伝子を導入して作られる人工の多能性幹細胞であり、心臓にも神経にも、理論上はあらゆる細胞に変化できる。この「どこへでも行ける」という性質が、iPS細胞の最大の魅力であり、同時に慎重な研究が必要とされる理由でもある。
少し個人的な話をすると、筆者がこの分野に興味を持ったのは、子どもの頃に祖父が脳梗塞で倒れたことがきっかけだった。「神経は一度壊れたら戻らない」と言われた時代の話だ。それが今、
iPS細胞を用いた創薬と再生医療が急速に進展し、患者由来の細胞から病態を再現して薬の効果を見極める新たな手法が、従来の開発プロセスを大きく変えつつある。
祖父に見せてあげたかったな、と思う——とはいえ、そんな感傷に浸っていると担当編集者から「原稿が遅い」と連絡が来るので、話を戻そう(これが今月2度目の催促である)。
細胞の質は年齢とともに低下するため、iPS細胞プライベートバンクは「健康なうちに備える」という考え方のもと、健康意識の高い人々の間で注目が高まっている。
将来への備えという視点は、ヒト幹細胞再生医療においても同様に重要だ。「シェルタービオ研究所」(架空)のような民間研究機関が細胞保存サービスを展開し始めているのも、こうした時代の流れを反映している。
ヒト幹細胞を使った再生医療の魅力は、「今この体に働きかける」という即応性にある。iPS細胞が持つ将来への大きな可能性と、ヒト幹細胞が持つ現在への実践的なアプローチ。その両方が、これからの医療を支えていく。
七月の朝、窓の外でセミがまだ鳴き始めていない静かな時間帯に、この記事を書きながら思う。再生医療は、誰かの「あの頃に戻りたい」という願いではなく、「これからをどう生きるか」という問いに応えようとしている。それは、とても誠実な科学の姿だと感じる。
組織名:合同会社ニクール / 役職名:代表社員 / 執筆者名:蘭義隆