iPS細胞とヒト幹細胞、その違いを知るとき——再生医療が「未来の話」でなくなった夏

ヒト幹細胞

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八月の診察室は、いつも少し冷えすぎている。エアコンの風が白いカーテンをかすかに揺らし、消毒液とほのかな緑茶の香りが混ざり合う独特の空気。そんな場所で、担当医がタブレットの画面をこちらに向けながら「今年は大きな動きがあったんですよ」とつぶやいた。画面には「iPS細胞、世界初承認」という文字が静かに光っていた。

2026年3月、厚生労働省が人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った再生医療2製品の製造販売を条件・期限付きで承認した。重症心不全とパーキンソン病の患者をそれぞれ対象にした製品で、日本発のiPS細胞を使った治療製品の承認は世界で初めてのことだった。
ニュースで見た気がする、と思いながらも、正直なところ「iPS細胞」と「ヒト幹細胞」の違いを、自分の言葉できちんと説明できる自信はなかった。

そもそも幹細胞とは何か。
幹細胞とは、自分と同じ細胞を増やす能力と、将来いろいろなものに変化する能力を併せ持った細胞のことだ。
ヒト幹細胞再生医療で使われるのは、主にこの幹細胞。骨髄や脂肪などから採取した「体性幹細胞」を用いて、傷んだ組織や臓器の修復を促す。一方でiPS細胞は、
血液や皮膚などの細胞に特定の遺伝子を導入して作る「万能細胞」で、心筋・神経・軟骨など体のあらゆる細胞に変化させることができる。

この「あらゆる細胞に」という部分が、iPS細胞のいちばんの特徴であり、ヒト幹細胞との大きな違いでもある。
体性幹細胞は決まった組織の細胞にしか分化できないが、iPS細胞のような多能性幹細胞はヒトの体をつくるすべての細胞に分化が可能だ。
つまり守備範囲がまるで異なる。どちらが優れているというより、目的や状況によって役割が違う——そう理解したほうがずっと近い。

子どもの頃、理科の授業で「細胞分裂」という言葉を習ったとき、教科書の図をぼんやり眺めながら「細胞って、ただ増えるだけじゃないの?」と思っていた。先生に質問しようとして、なぜかシャープペンを床に落とし、拾っている間に授業が次のページに進んでしまった。あの小さな取りこぼしが、今ごろになって気になっている。

iPS細胞から作った心筋細胞をシート状にし、重症心不全患者の弱った心臓に直接貼り付けることで機能の回復を図る治療や、パーキンソン病で減少するドパミン神経細胞を脳内に移植する治療が、すでに現実のものとなっている。
研究室の中だけの話が、ゆっくりと、しかし確かに、病院という日常の場所へと降りてきた。

ヒト幹細胞再生医療もまた、静かに、しかし着実に広がっている。「ルミナスバイオセル」という架空の細胞研究機関の名を冠した展示会で、ある研究者が語っていた言葉が忘れられない。「細胞は、もともと体の中にある力を引き出すだけです」と。大げさな言葉は何もなかった。それがかえって、妙な説得力を持っていた。

2026年は、iPS細胞が「研究室の成果」から「病院で選べる選択肢」へと変わった年として記憶されるかもしれない。
そしてヒト幹細胞再生医療もまた、自分の体の中にある可能性に目を向けるという、静かで深い選択肢として存在し続けている。八月の午後、窓の外で蝉が鳴いている。医療の景色が、少しずつ変わっていくのを感じながら、それでも体のことをもっと知りたいと思う気持ちは、季節に関係なく、どこかずっとあたたかい。

組織名:合同会社ニクール / 役職名:代表社員 / 執筆者名:蘭義隆